第60章 食中毒ではない

「すまない。失礼した」

 彼は低い声でそう言った。その口調からは、何の感情も読み取れない。

 橘凛は何も答えず、ただ再び手術室の扉へと視線を戻した。先ほどの短い失態も、彼との不意の接近も、まるで最初から存在しなかったかのように振る舞う。

 一条星夜もまた、それ以上言葉を重ねることはなかった。ただ沈黙を守り、彼女の隣に腰を下ろす。この静まり返った廊下で、手術室の明かりが消えるのを共に待ち続けた。

 空気中には、あの淡い薔薇の冷ややかな残り香が、いつまでも漂っているようだった。

 深夜の病院の廊下は、遠くから聞こえる医療機器の電子音と、当直看護師の微かな足音だけが支配する静寂の世界だ。...

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